下之町商店会について

下之町商店会は、岡山市表町に属する商店街です。
表町商店街のほぼ中央に位置し、県下最大の百貨店・天満屋とバスステーションを有する、市内で最も通行量が多い商店街です。県庁通りを挟んで北にロッツ(ロフト)やクレドなどの大型店も立地しており、休日には大変な賑わいを見せています。

商店街組合の概要

組合の名称 協同組合岡山市下之町商店会
所在地 岡山県岡山市北区表町二丁目2-31
代表者名 理事長大開博之
会員数 53名

LINKについて

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表町について

岡山市街地最大かつ伝統的な中心街「表町」は、さまざな表情をもった、個性的なデザイン性が好印象の商店街です。 桃太郎大通りに面する北側から南へ、上之町、中之町、下之町、栄町、紙屋町、西大寺町、千日前、新西大寺町(「表八ヶ町」と通称されます。
この愛称が生まれたのは明治36年:1903年と言われているそうで、当初の八ヶ町には橋本町(京橋町)が入っていましたが、後に抜けて変わりに千日前が加入し、現在に至っているとのことです)とブロックごとに個性的な名前で呼ばれているようです。
各町の入口や天井から吊り下げられた看板等には、「上之町」とか「西大寺町」などと掲げられていまして、現在においてもそれぞれの町名は親しまれているように感じられました。なお、住居表示上は、表町一~三丁目として整理されています。

岡山市再開発について

岡山市の中心市街地は、昭和20年の空襲により、大部分が焼失してしまいましたが、再興のため、昭和23~昭和61年にかけて復興土地区画整理事業により面的な整備を行いました。
また、岡山駅から東へ約1km離れた表町商店街の北の入口においても商店街を活性化するため、文化活動の拠点として音楽ホールを核とした岡山市表町一丁目地区第一種市街地再開発事業が平成3年9月に完了しました。

山陽道の起源

4世紀後半、大和朝廷時代にはすでに山陽道が整備され吉備王国への道として、また出雲への道、九州を経て中国大陸に続く道として、重要な機能を果たしていました。岡山県内にはいまでも、山陽道の痕跡が見られ、周辺には遺跡・史跡が数多く残っています。

 

城下町の起源

「岡山の城は山下殊の外広大にして、東の大川海に通じ運送よく」と宇喜多直家は、備前統一を果たすため、天正元(1573)年、現在の岡山城からほど近い石山の城に入り、家臣を集め、豪商を呼び寄せて城下町の形成に着手しました。
家臣たちが散らないように、そして彼らを養う食料や物資を集めるために旭川の水運に着目したのです。本格的な城下町づくりは、戦国の世がやや安泰を取り戻した宇喜多秀家の時代からで、天正18(1590)年、秀家は本丸を現在の位置に移し、旭川の本流を付け替え、旧山陽道(西国街道)を南下させて城下に引き入れ、旭川に架かる京橋を少し南に移し、開かれた町づくりを進めました。
多くの商人や旅人が旧山陽道を通って城下へ集まることを予測し、その恩恵を期待したのです。秀家の予想通り、街道に沿って多くの店が立ち並び、町人町が形成されていきました。
関ヶ原の後、小早川氏、池田氏が代々藩主となり、池田綱政の時代(在位1672~1714年)には、旧山陽道の西出入り口や裏町の整備、後楽園の築庭などが行われ、岡山城下の町人町が62町に確定するなど、城下町の整備はほぼ完成しました。

地域通貨サーフィスの取り組み

岡山市の表町商店街の有志と大学教授、市民らでつくる「表町地域通貨研究会」(会長、中村良平岡山大学経済学部教授)は18日、地域通貨「サーフィス」を3月1日から1ヶ月間、試験的に発行を始めると発表した。商店街のイベントをボランティアスタッフとして手伝えば、商品割引などのサービスを受けられる仕組み。本格流通を目指しており、商店街活性化の起爆剤として期待している。

超低床路面電車「MOMO」の導入をきっかけに、中村教授の研究室、市民ボランティア、政府系金融機関の日本政策投資銀行岡山事務所が02年5月に地域通貨の勉強会をスタートし、賛同を得られた表町商店街店舗と同11月に、表町地域通貨研究会を発足。現在、70店舗が参加している。

「サーフィス」は縦7センチ、横14センチで紙幣とほぼ同じ大きさ。商店街名の英訳と「サービス」をかけた命名。イベントの飾り付けや落書き消し、自転車の整理などをしたお礼として、1時間当たり400サーフィス(400円相当)を発行、参加店で3月31日まで使用できる。1ヶ月で5千枚(1枚50サーフィスで25万円相当)の発行が目標。

当面の発行イベントは23日の商店街の落書き消しと、3月1日の商店街で人前結婚する「ひな祭りストリート結婚式」。いずれも50人のボランティアスタッフを募集中。

表町商店街連盟の横山卓司理事長は「400年を超える歴史ある商店街で、産官学と市民が連携する初の試み。いろんな意見を採り入れ新しい切り口で、商店街を変えていきたい」と話す。
問い合わせは同連盟(086-226-2290)へ。

天満屋付近を南北に貫く表町商店街も元は山陽道だった

この先山陽道は国道180号線に吸収されながら山裾を小さな峠で越える。現在は大学をはじめ各種学校が多数立地する文教地区である。次第に市街地の様相を示してきた。岡山市の中心部に入ってきたのである。岡山駅構内の東を高架橋で越えた反対側で車を止め、折畳自転車に乗換える。
歩行者自転車専用の地下道が構内を横切っている辺りが山陽道の道筋で、その出口に小さな石碑があった。この辺り旧万町といい、城下の西の入口であった。旅籠の経営が許され、現在の岡山駅表口付近には惣門があったという。
そこから先は何度か直角に折れながら城下町の街路を南東に向う。旭川にかかる京橋までは完全な市街地で、旧山陽道を示す標識すらない。道筋には駅前のメインストリート桃太郎大通りや、市内随一の商業地区で人々の雑踏する、表町の天満屋百貨店のすぐそばの商店街も含まれる。面影はもちろん全く残っていない。もとは上ノ町、中ノ町、下ノ町、栄町、紙屋町といった城下町らしい町名だったのだが、それらの地名ももうここを往来する人々の記憶にはないだろう。

岡山県道路元標

現在の東岡山駅近くに位置する小さな郵便局のある四つ角に道標が残っている。南北に向っては「長岡駅西大寺観音道」、東西に向っては「岡山玉島神戸大坂京道」と彫られている。明治38年に建てられたというから山陽道の街道としての役割も終焉の頃である。「吉備温故秘録」によれば「追分の茶屋、北側は関村、南側は勅旨村となり、邑久郡へ行分れ道なるによって分れの茶屋といひしを、正徳元年十月八日より、追分の茶屋と改名」とある。旧道の交わる十字路、ここに小さな茶屋があり、人々が一時の休息をとっていたのだろう。